【Physical Expression Criticism】ドラマニア~テレビドラマの魅力・1~
ドラマが好きだ。毎日数本のドラマをテレビで見ている。明らかに見過ぎで、時間をとられている。だが、やめられない。季節の変わり目には、楽しんでいたドラマが終わるが、また新しいドラマが始まってしまう。コロナでさらにそれが加速されている。
名犬ラッシーから
「いつからドラマが好きだったか」と振り返ってみると、昭和40年代、子どものころの海外ドラマ、『名犬ラッシー』(1957~64年)やチャック・コナーズ主演の『ライフルマン』(1960~63年)あたりが思い出される。以降、海外ドラマについては、日本の放映年を記す。
デビッド・ジャンセン主演の『逃亡者』(1964~67年)は、小学校低学年で、唯一遅くまで家族と見ていていいドラマだった。これが実に傑作で、多くの日本人に愛されたことは、2020年に日本で、渡辺謙主演でリメイクされたことでもわかるだろう。いや、世界でも愛されたから、ハリソン・フォード主演で1993年に映画にもなったのだ。
また『奥様は魔女』(1966~68年)や『わんぱくフリッパー』(1966~68年)も楽しみだった。ちなみに、ファッションブランドのサマンサタバサは、『奥様は魔女』の主人公と娘の名前をくっつけたものだ。
もちろん、その前から放映されていた『ヒッチコック劇場』(1957~62年)も忘れるわけにはいかない。何度も再放送しているため、ほとんど見ている。元は30分だが、1時間版(1963~64年、65年)、カラーリメイク版(1986~87年)、さらに新作ヒッチコック劇場(1988年)なども見ている。そのため最近まで見ている感じで、昔のものという印象が薄いのだ。ヒッチコックの吹き替えの熊倉和雄の声が有名だが、SMの団鬼六が翻訳をてがけていたことは、検索して今回初めて知って驚いた。
原作もロアルド・ダール、ジョン・コリア、コーネル・ウールリッチ、ローレンス・ブロックなどのミステリー作家、レイ・ブラッドベリー、フレデリック・ブラウンなどのSF作家が参加しており、ロバート・ブロックが脚本を書いたものもある。また、新作ヒッチコック劇場の演出には、後にカナダの映画監督として個性的な作品を発表するアトム・エゴヤンの名前も見える。大学時代以降に再放送で見るときは、作家などのクレジットをメモするのが習慣だった。
泣いてたまるか!
日本のドラマを考えると、まず、渥美清の『泣いてたまるか』(1966~68年)が強く心に残る。さまざまな人間ドラマ、人情ドラマが基本的に一話完結で展開した。そして、山田洋次が脚本をてがけた最終話「男はつらい」が、翌年からの寅さんシリーズの映画『男はつらいよ』(1969~2019年)を生み出したのだ。
途中で青島幸男、次に中村嘉津雄と隔週交代で演じていたことは、すっかり忘れていた。後に有名になる脚本家、有名監督、俳優が多数関わっているので驚きである。
脚本では、野村芳太郎、橋田壽賀子、早坂暁、家城巳代治、清水邦夫、橋本忍、佐藤純彌、深作欣二、木下惠介、山田太一、森崎東、内田栄一、青島幸男、石松愛弘、山田洋次など。
俳優も、黒柳徹子、悠木千帆、弘田三枝子、バーブ佐竹、緑魔子、石橋蓮司、藤山寛美、栗原小巻、九重佑三子、宮本信子、小沢昭一、中山仁、平幹二朗、西田敏行、マコ岩松、原田芳雄、蟹江敬三、吉田日出子、中村賀津雄、市原悦子、大原麗子、太地喜和子、石立鉄男など。
次が、水前寺清子の『ありがとう』(1970~75年)。これは平岩弓枝の原作で、プロデューサーが石井ふく子であり、家族で見るドラマとして大ヒットした。さらに、石坂浩二、浅丘ルリ子、原田芳雄の『二丁目三番地』(1971年)は、倉本聰、向田邦子も脚本に加わっていた。石坂と浅丘が、このドラマがきっかけで結婚したことはよく知られているが、寺尾聰と范文雀もそうだった。さらに、続編といえる『3丁目4番地』(1972年)には、原田芳雄に加えて、大原麗子が出演している。
大原麗子という女優
大原麗子の全盛期、特にあの低く枯れたようなセクシーな声に男たちは痺れた。その声にスポットを当てたのが、大原がDJをつとめるドラマ『離婚ともだち』(1980年)である。なお、当時のDJはディスクジョッキー、ラジオのパーソナリティ(司会・語り役)で、いまのクラブ(ディスコ)で音楽をかけるDJとは違う。この作品で藤竜也、田村正和と共演し、さらに藤竜也とは『さりげなく憎いやつ』(1982年)でも共演している。
また、大原麗子と原田芳雄は、後に、倉本聰脚本の『たとえば、愛』(1979年)で津川雅彦と共演しているが、この作品は、倉本が「最も印象に残る作品」と述べている。大原麗子(1946~2009年)は62歳で孤独死しているが、そのことが、倉本に『やすらぎの郷』(2017年)を書かせたのだ。
『やすらぎの郷』は、俳優、脚本家などテレビ人だけが入る高齢者施設を舞台にしたドラマで、『二丁目三番地』で出会って、後に離婚した石坂浩二と浅丘ルリ子が、31年ぶりに共演したことも話題になった。藤竜也も出演しているが、2011年に亡くなった原田芳雄が生きていれば、共演したはずだ。つまり、大原麗子が全盛期に共演した俳優たちが揃っているのだ。そして、物語としても、大原麗子がモデルの「大道洋子」が孤独死したことが、この施設が生まれた理由だとする。さらに、第125話では、オープニングで「故 大原麗子」のクレジットが表記され、大原が出演したサントリーウイスキーのCMの有名なセリフ「少し愛して ながーく愛して」と写真が写された。倉本自身もインタビューで、大原の死がきっかけだったと語っている。
また大原麗子は、1965年に18歳で『網走番外地』シリーズで初めて共演してから、高倉健を尊敬する兄として慕っていた。その高倉とは、NHKの山田太一脚本の『チロルの挽歌』(1992年)で共演した。私は2020年の再放送で見たが、前後編で、とても見ごたえのある優れたドラマだった。大原はこの作品を「生涯の代表作」としており、大原が亡くなったとき、寝室のDVDプレイヤーには、この『チロルの挽歌』のDVDが入っていたという。
なお『やすらぎの郷』は、シニア、高齢の往年の俳優などが総出演の豪華なドラマだが、高齢ゆえに、放映中に、出演者の野際陽子(1936~2017年)が亡くなった。また、続編の『やすらぎの刻--道』(2019~2020年)では、放映中に、出演者の八千草薫(1931~2019年)、山谷初男(1933~2019年)、梅宮辰夫(1938~2019年)、中村龍史(1951~2020年)が亡くなっている。中村はよく知らなかったが、1990年代、「東京パフォーマンスドール」の演出などをてがけていたそうだ。篠原涼子は、ここの正式メンバーだったが、篠原同様、現在のドラマの女王の一人、仲間由紀恵も所属していた。
倉本聰、山田太一、向田邦子
NHKの朝ドラや日曜夜の大河ドラマはほとんど見ていない。北大路欣也の『竜馬がゆく』(1968年)くらいだ。水木洋子の脚本で、和田勉が演出しているが、たまたま司馬遼太郎の小説に引き込まれたためだった。大学時代もドラマを見ることは多くはなかった。やがて倉本聰と山田太一が活躍し始めたころに、再び見るようになった。北海道に行くことが多かったため、倉本の『北の国から』(1981~82年)にはまり、その後の8編のドラマスペシャル(1983~2002年)もすべて見ている。山田太一は、『男たちの旅路』(1973年)と『それぞれの秋』(1973年)は見ていたが、『沿線地図』(1979年)で、山田独特のセリフにはまり、『想い出づくり。』(1981年)と進み、『丘の上の向日葵』(1993年)を見たころに、再放送で『岸辺のアルバム』(1977年)を見た。だが、『ふぞろいの林檎たち』(1983年)を見なかったのは、ヒットしすぎていたから避けた。さらに向田邦子がNHKドラマで注目され、『阿修羅のごとく』(1979年、パートII:80年)、『あ・うん』(1980年)などを放映したときに、はまって、以降、本もほとんど読み、彼女の作品はほとんど見たが、それ以前の『だいこんの花』(1970年)、『時間ですよ』(1973年)、『寺内貫太郎一家』(1974年)は、流行りすぎていて、ほとんど見なかった。
このように、ドラマの脚本家に光が当たった時代が、倉本聰、山田太一、向田邦子らによって始まったといえるだろう。小学校のころは、何も考えずに見ていたが、次第に脚本家や演出家などに注目して、見るようになった。
だが、俳優で見ることもある。例えば、萩原健一、そして大原麗子。これらについて、そして他の米国のドラマ、さらに、現代に至るまで、書き綴る予定である。そして、最後に、考察を行いたい。
そのため、今回はここまで、「2」に続くこととする。
(つづく)
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