[Physical Expression Criticism]身体の追求
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[Physical Expression Criticism]身体の追求

[25]photo:GO

大橋可也

 大橋可也という振付家、ダンサーがいる。コンテンポラリーダンスのなかで、ある種の存在感を持って語られる人物で、大橋可也&ダンサーズというカンパニーを率いている。

 大橋は、自衛隊出身でコンピュータ関連の仕事に従事した異色の経歴だ。舞踏の創始者、土方巽 *の弟子、和栗由紀夫に師事し、舞踏由来の身体論を体現している。それが、彼の作品の魅力の一つだ。

 横浜国立大学卒業後、映像製作、パフォーマンスなどを経て、2年間自衛隊に在職。舞踏家・和栗由紀夫のグループで舞踏手として踊る。そして1999年、大橋可也&ダンサーズを結成し、2000年、バニョレ国際振付賞に応募するが、出演者が全裸であることで非公開審査になり、活動停止。

 活動再開後、2004年のトヨタコレオグラフィーアワードで『あなたがここにいてほしい』が最終審査。以降、海外公演も含めて精力的に作品を発表し、2008年には、新国立劇場小劇場で『帝国、エアリアル』を発表した。2012年には『断崖』と『ウィスパーズ』により舞踊批評家協会賞を受賞している。

 今回は2作を続けて上演した。『25(トゥエンティ・ファイブ)』と『Lustrous』だ。横浜赤レンガ倉庫を会場として上演されたこの2作は、前者が2時間半、後者が1時間10分。1日にこの2本を上演した。つまり両方見ると3時間40分で間が2時間あり、合わせると5時間40分。入場を含めるとほぼ6時間である。だが、そこまで付き合う価値がある、と思わせるのが、大橋可也の作品なのだ。

※土方巽の巽は旧字ですが、ブラウザによっては表示されないため、「巽」で表記しています。

横浜赤レンガ倉庫


赤レンガ倉庫

 ここで会場となった横浜赤レンガ倉庫について、少し知っていただこう。現在、横浜の名所となって、多くのドラマにも使われているが、実は長く廃墟状態の倉庫だった。

 1911(明治44)年に妻木頼黄 (つまき・よりなか) の設計で2号館、1913(大正2)年に1号館、さらに3号館と、赤いレンガづくりの倉庫が建ち並ぶ倉庫街になった。1923年の関東大震災で1号館は半壊、1930(昭和5)年に修復・再開した。戦争中は軍事倉庫で、戦後は米軍に接収され港湾司令部だった。1953年に返還され一つは税関、他は民間の倉庫として使われた。1989(平成元)年に倉庫としての機能は停止。以降、保存が議論された。

 1993年、大野一雄が3号館で舞踏公演『御殿、空を跳ぶ。』を上演。多くの舞踏家が踊り、美術に中川幸夫、音楽は三宅榛名など一流アーティストが集結した。それも契機の一つだったのだろう。1994年、保存が具体化して改修工事が続き、2002年に赤レンガ倉庫は、ショップ、レストラン、劇場の複合施設として、生まれ変わった。

 以降、横浜ダンスコレクションやTPAM(東京国際芸術ミーティング)、横浜トリエンナーレなどの会場としても使われ、多くのアーティストがここに集った。百年超えの歴史的建造物が活用されている好例だ。

 横浜には歴史的建造物が多く残っている。赤レンガ倉庫から市街を望むと、1932年建立の横浜税関、1928年の神奈川県庁が見える。それぞれの塔はクイーン、キングと名づけられ、その先にある1917年の横浜開港記念館のジャックとともに横浜三塔物語といわれる。三塔から近い日本大通りもレトロな洋ビルが建ち並び、海外の都市のような雰囲気を醸している。港とともに海外の窓口でもあったが、このように歴史的建造物を残すのは大きな意味がある。

『Lustrous』photo:GO


群舞の『25』

 それでは、今回の大橋可也の舞台は、どのような作品なのか。『25』は大橋を含めた10人の出演者、男2人、女性8人が踊る。

 気がついたら少しずつ、踊り手が登場しているというさりげない導入。バレエやジャズダンスのようなダンスではない。抽象的なモダンダンスでもない。コンテンポラリーといっても、脱構築的な動きでもない。しいていえば、さまざまな「身体の動き」である。日常的な動きもあれば、非日常的な動きもある。奇妙でコミカルに感じられる部分、倒れたり転がったり這ったりするところもある。「群舞」らしい部分はあるが「統制的」ではない。それぞれの身体がある種の規則、つまり、大橋の振付によって動いているのだが、それぞれの動きは、体から発している、自発的なものと思わせるところがある。

 大橋はスキンヘッドで一見異なる存在だが、踊りを見ているうちに、そういう個人の区別やスキルは気にならなくなる。だからといって、個人が消えるわけではない。無記名のモブ、集団でもない。やはりそれぞれの身体なのだ。ただ、だれがうまい、などの視点が消滅する。衣装はクリームやグレー系の目立たないもの。スカートも下にスパッツを履き、個人の性や区別は協調されない。だが、強い身体の感覚があり、魅力的だ。

 赤レンガ倉庫三階の舞台は独特である。背景(ホリゾント)は倉庫感を生かしたレンガ的意匠の壁。今回はそのホリゾント全面に白い幕が下から1メートルほどまで降りている。中央右手にドアがあるが、そこが開いている。

 左右の壁は上下可動式で舞台の印象を変える。前半は闇だったホリゾント寄りの壁の開いた部分が、後半では、下手側(左)の外の窓が開けられて、自然光が入ってくる。夕方に向かう時間帯の光の変化を舞台に生かし、身体が自然に輝く。その光の中に登場する踊り手たちは、とても美しく感じられた。

 前半はそれぞれの動きが決められ、振り付けられた形で展開する。休憩を挟んだ後半は、それぞれの動きが混ざり合う。前半で見た動きのバリエーションなのか、勝手に動いているのではない。その不思議な感覚は、見ている私たちが、前半で一時間以上、彼らの動きを体感したからだろうか。

映像と身体

 背景に映像が流れる。前半は抽象的に見える映像が、波の動き、水中の泡、さらに魚たちの動きへと変化する。それは一瞬、ダンサーたちが魚たちであるかのように思わせた。

 後半はスライド。スクリーンに合わせて横長に切り取られた風景で、散歩する犬、街角や海岸などの日常の場面。まず3枚投影され暗転、というパターンが繰り返されるが、次第に音とともに盛り上がり、次々とコラージュ的に見せる。前半の映像はニュートラル、環境映像的に見られたが、後半のスライドはスチル写真なので、観客は無意識に内容を「読もう」としてしまうため、ダンスへの集中が切れるところがある。

 いずれも映像作家、吉開菜央のものだが、彼女は振付家、ダンサーでもある。映像や画像を見ていくと、大橋たちが海辺の町で合宿をした際のものであろうと推測される。彼らの日常から抽象的、ニュートラルなものを引き出したいのだろうか。そして映像とともに、身体の動きにいつしか引き込まれ、2時間以上の舞台なのに、自分のみならず他の多くの観客も集中して見入っているように思えた。元鼓次郎の音楽・音響はノイズ的なものから多用に変化するが、過度の主張ではなく、舞台に寄り添っているようだった。また、市川春子のコミックがモチーフということだが、その『25時のバカンス』と『宝石の国』については、しばらく間をおいて読むことにして、ここでは舞台についてのみ述べる。

『25』photo:GO

『Lustrous』というデュオ

 『Lustrous』は、2019年にメキシコで初演されたものというが、以前から大橋の舞台に参加している後藤ゆうと大橋のデュオである。

 後藤はダンサーらしくない。というと非常に失礼だが、いかにも「ダンサー」という感じを出さない、自然さが身についた踊り手だ。関かおりなどの舞台にも出演しており、日本女子体育大学舞踊科出身で、体の修練・鍛錬は相当に積んでいることは、見ているとわかる。

 デュオなので、絡みとユニゾンかと思うと、そうではない。2人はそれぞれ独立しながら、それが絡み、時に同じ動きをつくるが、それが対照的となり、コントラストを生み出していく。2人の動きには淀みがなく、非常にクリアである。長身細身でスキンヘッドの大橋とシンプルな女子っぽい後藤との対照が際だつ。また、男女のデュオというと、性や愛の要素が出てきがちだが、まったくそうではない。振付・構成された動きを踊っているのだが、きわめて自然である。でも穏やかな舞台とはいえない。時には、動きを時間差で見せながら、前後に進むところなど、各所にスリリングさを感じさせる。

自然と光

 『25』の後半で見せた自然光による自然との対話。それが共通する一つのモチーフのように思える。タイトルの「lustrous」はきらきら光る、つまり、光のある、という意味だ。そして語源的にみると、月の光を思わせる表現だ。月の光は穏やかであるが、lunaticなど、実は狂気を連想させる言葉でもある。穏やかな月の光なのか、狂気を孕む月の光なのか。それはわからない。ただ、静かに浮かび上がる身体そのものが、光を発している、ということだろう。また、海の映像と合わせて考えると、水中から見た光のきらめきのようでもある。

 自然な踊りほど難しいものはない。日常の動きをただ舞台に載せても5分と持たない。日常の動きをただ見るなら、カフェで外を眺めていればよい。つまり、いかに自然を感じさせるかということだ。

 それは、実は身体そのものを追求することによって成立する。大橋可也、さらに鈴木ユキオ、岩渕貞太、関かおりなどはそういう舞台をつくる。身体でしかできないもの、名づけようもない踊り、そういうものを希求する。それは舞踏が追求しているものと重なり、彼らはいずれも舞踏の強い影響を受けている。だが、舞踏という言葉にとらわれないダンスを求める。それが、海外からも新しいダンスとして評価されてきたのだ。

『Lustrous』photo:GO

観客が共振する

 大橋のこの二つの舞台は、自然を基本とした動きだからこそ、私たち観客が共振し、体のことを感じ、考え、ダンスの中に入っていくことができる。それは、ダンスを見ながら、そのままダンスを体験するような感じでもある。群舞のなかに、友人が混ざっていてもおかしくない。自分もそこにあっていい。そんなふうに感じさせ、踊りに観客の意識を巻き込むようなところが、この舞台『25』にはある。

 『lustrous』は『25』とは違って、自然でありながら、二つの身体のスリリングなせめぎあいがポイントだ。後藤ゆうという踊り手には、これまでも注目してきたが、改めてその魅力を感じる舞台だった。ところが、それをどう表現していいかわからない。自然な踊りの魅力とか、大橋可也の踊りの優れた体現者とか、そういう言葉も、かえって遠ざかるように思われる。おそらく、今度、後藤ゆう自身のソロを見たら、それがわかるのかもしれない。ただ、彼女の身体は、デュオ、群舞、どちらの舞台でも、時に静かな光を発していたことは、記しておきたい。特に群舞の後半で現れたときに、その光に引き込まれた。

 大橋の舞台は自然な動き、日常と非日常の差異を探る舞台でもある。そして、現代という社会の中に、身体という一つの自然を置いたときに、それがどう機能して、どう社会に影響を与えるか、という挑戦のようにも思える。だからこそ、この舞台に、私たち観客は共振し、気がつくと、小さな高揚感を感じているのだ。それは、日常に日常をぶつけることで非日常化し、止揚するという試みなのかもしれない。身体を追求するということは、自然を追求することでもある。その意味で、当然の道筋なのだが、それは私たちに、見たことのない舞台を見せてくれたのだ。

(文・志賀信夫)

Critic, writer, editor, university lecturer
Member of the Dance Critics Society and the Japanese Society for Dance Research. Specialty: Butoh, dance, art, literature, surrealism, avant-garde art. Many comments and examinations of dance and theatre, talks of dance theatre and art, performance producing, etc. Author and co-author of numerous books such as "Talk with Butoh Dancers","Bigakko 1969-2019", "Research of Takaaki Yoshimoto", Journal"Tosho-Shimbun", "Weekly Dokushojin", magazines"Dancework", "ExtrART",etc. Director of magazine"Corpus". https://butohart.jimdofree.com/https://butohart.jimdofree.com/

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