[The Evangelist of Contemporary Art]ヨコハマトリエンナーレ2020とは何だったのか?(その1)
1.
ヨコハマトリエンナーレ2020は、新型コロナウイルスのパンデミック下で開催された数少ない国際展の一つ(私の知るかぎり、ヨコハマトリエンナーレ以外にシドニー・ビエンナーレ、マニフェスタ〔マルセイユ〕、ベルリン・ビエンナーレ、釜山ビエンナーレがある)である。自由に海外渡航できない不測の事態(実際、上記のビエンナーレを鑑賞することはできない)では、ビエンナーレやトリエンナーレといった定期開催の国際展を体験できる貴重な機会となった。
このような非日常的な状況で行われた2020年のヨコハマトリエンナーレ(10月11日終了)のタイトルは、『Afterglow―光の破片をつかまえる』(1 写真上)だった。Afterglowを日本語に訳せば「残光」となるだろうか。通常タイトルが国際展のテーマを要約しているので「残光」をテーマと考えるとして、それを明示したり暗示したりする作品が会場を占めると思い込みがちだが、そのように解釈することが容易ではない作品が多く並んでいた。その意味で、他のビエンナーレと比較して異質な国際展だった。明確な分かりやすいテーマと、内容の掘り下げが好まれるのが昨今の国際展の流れであるなかでは、珍しい。
とはいえトリエンナーレに、タイトル=テーマを明示する作品がまったくないわけではない。それが、二つのメイン会場にあった。横浜美術館(2)では、(残)光によって窓に植物の影が射している(チェン・ズ《パラドックスの窓》)。家屋の外側では観葉植物の影が映し出される(3)。ところが、後ろに回るとあるはずの植物の姿はなく、室内の窓にあるはずのない野外の樹木の影が映っている(4)。このダブルの影の光源はどこにあるのか?
もう一つの会場プロット48(5)は、夕暮れの荒野に放置された航空機の残骸のなかで叩かれるドラムを撮影したヴィデオ《ゴースト・クラス》(ティナ・ハヴロック・スティーヴンス、6、7)である。太陽が地平線に沈もうとする残照(光)のなかで響き渡るドラムのリズムは、残光の暗示的意味である衰滅や没落をも喚起する。そこは、テクノロジーの文明の墓場だろうか?
暗示的意味と言えば、その作品の裏にあったコラクリット・アルナーノンチャイの《おかしな名前の人たちが集まった部屋の中で歴史で絵を描く 4》(8)と題されたヴィデオ・インスタレーションの主題である人間の老齢化も、生命の衰退という意味で「残光」を発しているだろう。さらに同じスペースに置かれたヴィデオ《溺れぬ者たちへ》(ナイーム・モハイエメン、9)も、廃屋となった元病院で繰り広げられる病人の衰弱のストーリーという意味で「残光」の輪舞だったのかもしれない。
しかし、それ以外にテーマであるべき「Afterglow」を実感できるものは少なかったように思う。トリエンナーレを辿って、展示作品から展覧会の概要を把握してみたい。(撮影:市原研太郎)
その2に続く。
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